- 月虹 -


「雪、降らないね…」
 ただひたすらに夜空を見上げている。
「いつ振るかな?」
 真っ暗な虚空を見上げたまま笑顔で呟いている。
 テレビやラジオでは朝から雪の予報。確かに今日は一段と冷え込みが厳しくて、雪が降ってもおかしくはない。
「…なんで、そんなに雪がみたいの?」
 もうずっと前に冷え切ってしまった手を摩りながら尋ねる。
 彼是1時間近くはここにいると思う。何をするわけでもなく、何を考えるわけでもなく。
 今日、空いてる?なんてメールが届いた。今日は予定らしい予定はなかった。ちょっとだけオシャレして、でもそんな素振りみせないように。いつもと変わらずコーヒーを飲んだ。気がついたらここに連れられてた。失敗した。
「雪がさ、降る様って楽しくない?キレイでしょ?」
 相変わらずそのままの視線のまま。首、疲れないのかな…。
「ん、まぁ…キレイかな。でも、積もると大変でしょ、翌日とか」
 都心では雪なんて滅多に降るものじゃないから、たとえ積もったって梳けたって凍まったって、雪用の靴なんて持ってなくて、冷たいし濡れるし滑るし、いいことなんてなくて。
「それはその時にキライになれば良いことで、今は降り散る雪がスキだから」
 そんなの理由になってないと思うんだけどな…。
「そだね」
 ちょっとだけ、いやだいぶ呆れた投げやりな声で返した。
「あ、もしかして、寒い?」
 …今頃何を言ってるんだか。
 正直、帰りたい。いや、帰りたくないんだけど、どこか暖かい所に行きたい。
 せっかくの休日。でもいつもは会えない休日。初めて誘われた。嬉しかったよ。でもこれは違うんじゃない?それとも贅沢すぎる?
「あなたは寒くないの?」
 たいして厚着してる様には見えない。
「寒いかな?でも雪を待つ子供とかって寒さとか関係ないじゃない?」
 ひとつため息をついて。
「…あなたは子供なの?」
 よくよく考えれば、この人は限りなく子供なのかもしれない。普段は意思と責任を持ち合わせた大人。極端な大人と子供を持ち合わせた人。何が出来るわけでもなく、まわりに流されて、いつも中途半端な自分にはないモノ。だから惹かれたのかもしれない。でも、どちらに?
「ホントはね、雪も好きだけど、月も好きなんだ」
 こうやって話しが飛ぶのは子供のよう。
「でも、雪だと雲が覆って月が見えることはないでしょ?つまり自然現象ではありえないってこと。でもいつか実現してみたいんだよね。たとえ何かを犠牲にしてでも、どんなに大変でも、そんな景色を見てみたい」
 その信念と行動力は大人のよう。
「でも、今は、雪、かな」
 目を細めさらに遠くを見つめている。口元は満足げに微笑んでいる。
 この人は何が見えているのだろう。何に満足をしているのだろう。本当の視界に映っているものは何なんだろう。この立ち並ぶビル郡は?階下に広がる街の灯は?ただ一人、あなたの隣にいる私は?
「…こんなのって、ないよ」
 聞こえないように、でも聞こえるように呟いてみる。俯いてしか言えない自分を情けないと思いながら。
「うん、そうかもしれないね」
 …え?
 見上げていた顔がいつのまにかこちらを見つめていた。さっきの子供の笑顔とは対照的な、大人の苦笑いをしながら。
「本当はさ…」
 次の言葉が発せられる直前、一片、舞った。
「…あぁ」
 どちらが発した嘆息かはわからない。二人とも見上げていた。ゆっくりと、真っ暗な空に白い模様が舞う様を。


 どれだけの時間が過ぎたのか。それが1分だったのか1時間だったのか。
「うんうん、雪だねぇ。あとは月だねぇ」
 子供のような弾んだ声が聞こえた。ゆっくりとそちらを向く。
「ちょっと早いけど、誕生日おめでとう」
 寒さで感覚の麻痺した私の手を取る。
 何か硬いモノが指に触れる。
「いつか、見せてあげる。ううん、一緒に見てね。月光の下の雪の舞い」
 そう言ってまた夜空を見上げる。
 私は無言で自分の指を見下ろす。
「...der mond」
 いつだか、第二外国語でドイツ語を取っていたことを話していたっけ。
 それが刻まれたリングが光っていた。
「ありがと…」
 滲んでゆく視界の端に、三日月の様に満足げに微笑んでいる口元が見えた。






戻る