午前1時。駅からタクシーを飛ばして30分。 到着してからかれこれ1時間、この門の前で立ち往生してる。 「そろそろ…入ろうよぉ」 隣に目を瞑って立ち尽くす影に話しかけるけれど、相変わらず返答はなし。 目の前にあるのは門と言うほど大したものではなくて、古ぼけた木製の柵。鍵もお飾り程度の鎖が巻かれてるだけ。 「いいや、私一人でも入っちゃお」 季節は冬。それなりに厚着はしてきたけれど、そろそろ限界。寒いよ。 鎖を外して門をゆっくりと開く。木の軋む音と一緒に呟いてしまう。返事は期待せずに、独り言のように。 「…とうとう来たね」 京都、嵯峨野。 深夜の祗王寺。 ここが、私たちの始まりの地…。 私は一人で門をくぐって、寺内をゆっくりと見渡す。 「あらら…今はこんな風になってるんだぁ」 ここは私たちの前世?が暮らした場所。ハテナがつくのは間違いないっていう証拠が何もないから。あるのは千年前に別人として暮らしてた記憶。 その昔、私は仏御前なんて名前だった。まだ門の前から動かないでいる彼女は祗王と呼ばれてた。二人とも平家のお抱え白拍子。今も私たちの記録が残ってるのは、このお寺と平家物語の一節くらい。 「う〜ん…記憶と全然違うじゃん」 何度か廃寺になってるらしいから昔の面影は全く残ってない。 でも相変わらず嵯峨野の夜は真っ暗。今日は月も雲に隠れて寺内には照明もない。 「あ、祗王ちゃんはちゃんと懐中電灯つけてきてねぇ」 そう言いながら私は手ぶらで真っ暗な庭園を躊躇わず歩く。だって私に灯りはいらない。 闇を見通す能力。 それが記憶と一緒に持っている、普通の人とちょっと違うチカラ。 「ふぇ〜、なかなか綺麗〜」 お寺なんて呼ばれてるけど、あるのは木造の小さな母屋、苔に生した庭、寺外を取り囲む竹薮だけ。とは言え、嵯峨野の名所の1つになってるからそれなりに整えられてる。 「私たちが居た頃はもっとお寺っぽかったよねぇ?」 祗王ちゃんに投げた言葉だけど、相変わらず返答なし。 たしかに普段から彼女はお喋りじゃないけど、ここに向かう途中からどんどん無口になってる。緊張してピリピリしてる感じはないけど、いつものやさしいお姉さんモードでもない。 「んもぉ、いい加減、祗王ちゃんも入ってきなよぉ」 門まで戻って彼女の手を引く。 「…うん」 上の空な返事。やっぱりおかしいや。 私はため息を1つついて、祗王ちゃんの持っている懐中電灯のスイッチを入れてから寺内に引っ張り込む。そのまま庭内を一周。 母屋の縁側に虚ろな祗王ちゃんを座らせてから私もその隣に。 「昔もこの時期は寒かったよねぇ。今みたいにエアコンなんてなかったから、私なんてしょっちゅうアカギレになってたし」 途切れ途切れの思い出。記憶なんて言ってるけど前世まるまる一生分のものがあるわけでなくて、映画の1シーンみたく、そんなのが無数に残ってるだけ。鮮明なのも、ひどく曖昧なのも、とにかくごちゃまぜ状態。 「洗濯とかさ、もう大嫌いだったもん」 今の私たちはこの時代に生まれて、普通の人と変わらず生活してる。 仏や祗王の意識が、私たちの意識とは別にあるわけではない。だから彼女たちの霊にとり憑かれてるわけでもない。ただ、ふと時折思い出すだけ。 そして考える。本当に私たちは生まれ変わりなのかな…? 「…そうね。大変だった」 穏やかな顔のまま目を瞑ってる祗王ちゃん。それは昔を思い出しているのか、話すことを拒んでいるのか解らない。 ううん、本当は解ってる。祗王ちゃんが何を思い出しているのか。 「やっばり、彼のこと思い出しちゃう?」 前世で私たちは彼…清盛くんのお気に入りだった。 私は彼に対して特別な思い入れがない。でも祗王ちゃんは違うみたい。いろんな想いがまだシッカリ残ってるって、彼女の妹の祗女ちゃんから聞いたことがある。 「…まだ、私のこと恨んでる?」 あの晩の宴、舞っていた私が清盛くんの気を惹いてしまったせいで、それまで彼に愛されていた彼女は館を追い出されてしまった。 居場所のなくなった祗王ちゃんたちは尼さんとして、この祗王寺でひっそり過ごし始めた。 「恨まれてても、私は昔から好きだよ。祗王ちゃんのこと」 あの頃の清盛くんは、地位も財産もあるイケメンな人だったけど、正妻がいるのに妾を囲んで毎日遊んでばかり。 そんな彼に私は恋心なんて持ちようがなかった。それでも彼の傍に居たのは、ただ自慢の舞いを誉めてもらえるのが嬉しくて、人よりちょっと贅沢な暮らしが出来たからなだけ。 「ホントだよ。ね?信じて」 追いやられてからもずっと清盛くんを想ってる祗王ちゃんを見てて不思議だった。都一と謳われた白拍子だった人が全てを捨てて、報われない恋に生きてる。 私には真似出来ない。恋になんて生きたくない。でも、そんな祗王ちゃんが羨ましく思えた。 「あのね、祗王ちゃんはずっと私の憧れだよ。今も、昔も、変わらないよ」 気がついたら、見栄とか贅沢とか、そんなものを欲しがってる自分がつまんなく思えてた。だから私もここに来た。祗王ちゃんは私を快く迎えてくれた。 それからは祗王ちゃんと一緒にここでずっと暮らしてた。 「…うん、知ってる。ありがとう」 私を見て微笑んでくれてる。良かった。嬉しい。 「そうだ、母屋の中に私たちの仏像があるらしいよ。見てみようよ」 振り返って母屋の木戸を動かす。もちろん鍵なんてかかっていない。祗王ちゃんのために屋内を懐中電灯で照らしてあげる。 「あはは、へんなのぉ。なんか畏まってるよねぇ」 屋内の床の間には、奉られた仏像が5つ。 私、祗王ちゃん、祗女ちゃんとおばさま。それと… 「…清盛…様…」 清盛くんの仏像を見つめて、祗王ちゃんがつぶやく。 その瞬間、私の視界は真っ暗になった。 …何も見えない… …どんなに暗いところでも…見えるはず…なのに… …チカラを使っても…何も見えない……こんなこと…初めて… …私はいま……どこに…いるの?… …怖い……怖いよぉ… …祗王ちゃん…助けて……祗王ちゃんっ… 『…うつしよの…』 …遠くから…微かに歌が…聴こえる… …闇に…少しずつ……耀が…射す… 『…いとしきものは…』 …遠く…近く…宮の舞台……遠近感が…狂う… …ここは…どこ?……知らない…場所… 『…名も知れぬ…』 …舞台の上……白拍子姿の…祗王ちゃんが…舞ってる… …扇を…振り……凛と… 『…この身朽ちども…』 …美しくて…華麗な…舞い……迷いのない…想い… 『…逢瀬願いし…』 …また…闇が……耀が…遠く… …声も…舞台も…祗王ちゃんも……待って…祗王ちゃんっ… 「…あれ…?」 気が付けば私は縁側に座ったままだった。夜風に微かに揺れる竹薮、静寂しかない庭園、木戸の開いたままの母屋。闇に落ちる前と何も変わりはない。 そして隣には祗王ちゃん。 「私、いま…あれれ?」 祗王ちゃんの方を向く。空を見上げてる。口元が微笑んでる。 「…月、綺麗ね。あの頃と変わらないわ」 祗王ちゃんの澄んだ声はまるで空気に梳けるように流れてく。 そして私も夜空を見上げる。 いままで雲に隠れていた満月が薄蒼く輝いている。 「うん、綺麗だね」 庭園はその輝きで淡く燐光を放っているかのように見える。 …そう、ずっとそうだった。 月はいつも私たちを優しく包んでくれていた。 「…変わらないものも…あるのね…私たちの…こころと同じように…」 つぶやく祗王ちゃんの左眼から、一滴の涙が流れ落ちた。 そして、私たちはずっと蒼月を眺めていた。…今も…昔も… |